本堂の南正面に建つ、入母屋造、本瓦葺、二軒繁垂木で深い軒をつくる水屋です。 天井は格天井として、風格を持たせています。 中央に設置された細⻑い水盤は、龍頭の出す水を受けています。 その足元は愛嬌のある邪鬼が支えています。 四隅に角柱を配して東⻄方向に斜め補強材を添えて、三斗を組んで桁を受けています。 小規模な建築ながら、本堂に備えられた水屋に相応しい、堂々とした建物です。
比叡山焼き討ち
元亀2年(1571年)、織田信長の軍が比叡山延暦寺を攻めた戦い。信長軍は延暦寺の伽藍を焼き払い、山内の人々をことどとく殺害したといわれている。
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織田信長
戦国時代を代表する武将。美濃の出身で、天下一統を目指し、永禄11年(1568)9月、室町将軍家の足利義昭を奉じて上洛の途についた。入京目前の9月24日、三井寺に陣をひき、光浄院を義昭の宿所に充て、自らは極楽院に入った。その後は近江に安土城を築き、諸国平定を進めるも家臣の明智光秀の謀反(本能の変)により天下布武への夢は、志半ばで潰えてしまった。(1534~1582年)
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四脚門
本柱(親柱)を中心に前後に四本の控柱が立つ形式の門。控柱が四本あるので四脚門といい、社寺の表門に多く用いられる。本柱を円柱、控柱をやや細めの角柱とし、切妻屋根とする場合が多い。なお、前後に控柱が四本、計八本あるものは八脚門という。
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江戸時代
徳川家康が慶長5年(1600)関ヶ原の戦で勝利を占め、1603年幕府を江戸に開いた頃から、慶応3年(1867)徳川慶喜の大政奉還に至るまで約260年間の称。徳川時代。
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桟瓦
横断面が波形の瓦一種類だけを使う葺き方で、江戸時代に考案された。本瓦葺に比べて経済的なことから簡略瓦とも呼ばれていた。現在、町屋や住宅などで普通に葺かれているのが桟瓦葺である。
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桃山
時代区分の一つ。16世紀後半、豊臣秀吉が政権を握っていた約20年間の時期。美術史上は安土桃山時代から江戸初期を含め、中世から近世への過渡期として重要。特に豪壮な城郭・殿邸・社寺の造営やその内部を飾る障壁画が発達。また、民衆の生活を示す風俗画の展開、陶芸・漆工・染織など工芸技術の進歩も著しい。
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衲衣
人が捨てたぼろを縫って作った袈裟のこと。古くは、これを着ることを十二頭陀(ずだ)行の一つとしたが、中国に至って華美となり、日本では綾・錦・金襴などを用いた七条の袈裟をいう。
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法勝寺
京都市左京区岡崎にあった白河天皇の御願寺。1077年(承暦元)金堂など落慶供養が行われ、講堂・五大堂・八角九重塔が建立されたが、1185年(文治元)地震により倒壊。1342年(康永元)の火災で大半を焼失し、応仁の乱以降廃絶した。
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平安時代
桓武天皇の平安遷都(794)から鎌倉幕府の成立(1185)まで約400年の間、政権の中心が平安京(京都)にあった時代。ふつう初・中・後の3期、すなわち律令制再興期・摂関期・院政期(末期は平氏政権期)に分ける。平安朝時代。
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寄木造
複数の木材を組み合わせて像の頭部や体幹部を造る木彫の技法。内部をくり抜いて重量を減らし、少ない木材で大きな像が造れるなどの利点がある。日本独自の技法で、平安時代中期から後期にかけて完成された。
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書院造
平安時代の貴族社会で生まれた寝殿造が社会の変化と共に発展し、鎌倉時代以降になると実権を握った武士の生活スタイル、ことに接客儀礼の必要性に対応し、また中国から伝来された禅宗建築の影響もあり、徐々に武家社会の邸宅として独自の様式を備えてきたものである。
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伏見城
京都市伏見区東伏見山に豊臣秀吉が文禄1年(1592)から築いた城。1596年地震で倒壊、木幡山に移して再建。京都の関門を占めた。後に江戸幕府が廃棄、その遺構は大徳寺・西本願寺・豊国神社などに移されて現存。
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安土桃山時代
時代区分の一つ。織田信長が足利義昭を奉じて入京した1568年から豊臣秀吉が亡くなった1598年、または徳川家康が征夷大将軍に任じられ幕府を開いた1603年までを指す。
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真盛上人
天台真盛宗の祖。伊勢国(現在の三重県)の出身。1443年(嘉吉3)~1495年(明応4)。比叡山西塔で修学した後、1483年(文明15)西塔黒谷青龍寺に隠棲。專念仏を修した。坂本では生源寺に於いて『往生要集』を講じ、源信に傾倒し西教寺を復興して、戒称二門弘通の道場とした。勅諡は「円戒国師」「慈摂大師」。
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徳政一揆
中世、売却地の取戻しや債券の債務の無効を定めた法令を「徳政」と称した。本来は仁政とか善政を意味する言葉で、為政者が困窮している民百姓を救済するために債務破棄や売却地の取戻しを認めるものであったが、徳政一揆は債務に苦しむ農民たちが実力行使で徳政の合法化を目指して起こしたもの。
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恵信僧都源信
天台宗の僧。942年(天慶5)~1017年(寛仁元)。大和国出身、幼くして比叡山に登り、良源に師事し13歳で出家得度。山内の横川に住し、985年(寛和元)『往生要集』3巻を著し、浄土教の発展に寄与した。
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元三大師
第18代天台座主。912年(延喜12)~985年(寛和元)。近江の生まれで天台教学を学び、横川に住まいした。正月三日に没したことからのちに元三大師と通称された。諡号は慈恵(僧正)。死後間もなく誕生や往生の奇瑞や験力が伝説化され、大師信仰につながった。
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聖徳太子
名は厩戸(うまやど)。父は用明天皇、母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女。574年(敏達3)~622年(推古30)。推古天皇の摂政となり、蘇我馬子とともに内外の政策にあたる。冠位十二階や十七条憲法を定めたという。特に仏教に帰依し、四天王寺や法隆寺を創建した。
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裏堂(位牌堂)
本堂須弥壇の裏側。後門・後堂ともいう。行道するときにここを回り、またここより入退堂する。須弥壇裏の壁面には釈尊(または釈迦三尊)の壁画が多く見られるが、裏堂本尊ともいうように諸尊を祀るところもある。
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蟇股
二本の水平材の間に置かれ、カエルが股を広げたように曲線状に左右の両裾が広がった部材。また鏃(やじり)の形状のひとつである刃先が二股に分かれた雁股(かりまた)から転じたともいわれる。
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文化財一覧
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01
宗祖大師殿通用門
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02
宗祖大師殿
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03
宗祖大師殿唐門
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04
宗祖大師殿水屋
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05
本堂前水屋
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06
納骨堂
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07
正教蔵
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08
本堂
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09
阿弥陀如来坐像
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10
客殿
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11
薬師如来坐像
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12
客殿通用門
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13
観瀾亭
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14
書院
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15
灌頂蔵
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16
御廟
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17
石燈籠
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18
梵鐘
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19
聖観音立像